私も本の制作のため何回か女川町を訪ねましたが、悲惨な震災痕とガレキの山に囲まれながらも、元気に、笑いを絶やさない子供達の姿を見て胸が熱くなりました。
子供達の俳句作品の中から一部をご紹介します。『思い出が 宝物なのに 全部ない』『あの人が 帰ってきた 夢を見た』『笑えてる おかえりなさい もとの自分』『天国の 人たちきっと 見ているよ』『過ぎたんだ 俺らは進む 未来へと』。これらの作品は今年の夏、国際宇宙ステーション...
そうして出来上がったのが、女川町の子供達の”記憶集”『まげねっちゃ』です。この本には、女川の子供達が3・11という現実を、悲しみを、そして将来への希望を凝縮させた作文、俳句、絵など249作品と子供達の1年間の歩みを追った写真240点で構成されています。
女川町の方から女川町内の小中学校の先生を通じて本の企画を提案させていただいたところ、「授業で、子供達に作文だけでなく俳句を書かせたり、絵を描かせたりして自分たちの気持ちを表現してもらっている。その作品なら提供できる」という、非常に前向きな逆提案をいただきました。
私は「支援だけでなく、出版社として何か被災地の方々と関わることができないか」と考え、お二方に「被災地の子供達の率直な気持ちを綴った作文を書いてもらい、本にまとめることができないか」と相談しました。お二方ともお忙しいのにもかかわらず、地元の小中学校の校長先生に話をしていた...
石巻の方は自分も被災者であるにもかかわらず、自分たちで立ち直ろうと、いち早く支援活動を行なっていました。活動していくうちに、女川町でも、自分の家が流されて体育館に避難しているにもかかわらず率先してボランティアで支援活動をされている方と出会ったそうです。
震災から3週間以上経過していたのに、女川町の様子は凄惨そのものだったそうです。道路がかろうじて整備されていただけで、がれきはほとんど手付かずのまま。女川町はこの震災で死者・行方不明者837人、町の人口の1割近くが犠牲になるというあまりにも過酷な被害を被りました。
社長が石巻に支援物資を届けた時に、その方はふとこんなことをおっしゃたそうです。「石巻もひどい状況ですが、もっと酷いところがあるんです。そこは支援も行き届いていないんです。よろしかったら行ってみませんか」。案内されていったところ、それが宮城県牡鹿郡女川町でした。
すると、その方はこう提案してくれました。「自分たちも被災して避難所にいるが、私達は大丈夫です。出来るなら、石巻にいる親戚の方に支援物資を届けていただけませんか」。そこでその親戚の方に連絡を取り、石巻の避難所に支援物資を届けることにしました。4月初旬のことです。
きっかけは、まさに偶然でした。震災直後から、青志社として何かできないかと僅かな量ですが支援物資を南三陸町などの被災地に届けていたのですが、ある著者の方が仙台出身ということもあり、「何か困ったことありませんか、支援物資お届けしますよ」とお尋ねしました。